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今からおよそ1,100年前の貞観11年(869年)、京都に疫病が流行し、死人が多数出ました。 これを、牛頭(ごず)天王(スサノオノミコトともいわれている)のたたりとして、そのご機嫌をとるため牛頭天王をまつり、日本全国の国の数だけ(66本)の鉾をつくらせ、それを神泉苑(中京区御池通大宮)におくり、疫病退散を祈願したのが、7月に京都で行われる祇園祭のはじまりと伝えられています。 室町時代になると、町々に特色のある山鉾が作られました。 現在、祇園祭のハイライトである山鉾巡行の山鉾には、華やかな飾りが施されています。その中に16世紀に現在のベルギーで織られたホメロスの叙事詩イーリアス等を描いたタペストリーがあります。 このタペストリーは、江戸時代初期、伊達政宗がヨーロッパ視察のため派遣した家臣である支倉常長(はせくら つねなが)が関係しています。 日本人として初めて太平洋を横断し、メキシコ経由でヨーロッパに渡った支倉は、まずスペインに渡り、そしてイタリアでローマ法王パウロ5世に接見し、その時、法王からタペストリーを贈られたといいます。しかし、支倉が帰国した頃の日本は、幕府の鎖国政策とキリスト教弾圧が始まった頃で、彼らを受け入れる状況ではなかったといいます。そのような状況のためか、詳細は分かっていないのですが、そのタペストリーは伊達政宗から会津松平藩主へ渡ったと言われています。財政が逼迫し京都の豪商から多額の借金をしていた会津藩は、会津藩家老の代々の菩提寺だった会津天寧寺の和尚に託し京都天寧寺を経由して豪商に売ったと考えられています。そして最後に京都の町衆が、鉾や山の飾りとして購入したといわれています。 法王から贈られたタペストリーが、日本にたどり着き、会津藩から借金返済のために京都へ流れて祇園祭の山鉾に飾られている…。そう考えると、とても不思議な気分がしてきます。 神功皇后・聖徳太子・役行者・天神様、観音様等、種々の趣向がこらされた飾り付けがなされている山鉾、神話や中国の故事に基づいた作り物や、儒教・仏教・道教の教えさえ取り入れられ、ホメロスの叙事詩イーリアスや旧約聖書の中のアブラハムの子イサクの嫁選びの図柄のタペストリーまでが用いられている。あらゆる神々が集まって祇園の神をたたえるという形にも見えます。 遠い異境の神までが集まり祇園の神を迎えてこれを祭る、あらゆるものを包容して、それを一つの祭りの中に調和させているところは、八百の神を祭る日本人の独特の思想が反映されているのでしょうか。 |