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祭祀甚句の唄と太鼓の音が響く境内には、手杵棒(てきねぼう)や荒縄をかけた弓を持ち、顔に墨を塗り、頭にシダの葉をかぶって黒の素襖(すおう)を着た村人役の男性3人。その後を王女・侍女たち8人が続き境内を回る。やがて3人の村人役は境内を走り回り、襲撃者として行列を襲う真似をして暴れまわるが、最後に杵を大地に投げ棄てこのようなことは二度としないことを誓う。境内は異様な雰囲気に包まれる…。 福井県小浜市は若狭湾に面した矢代という漁村集落に「手杵祭」という奇祭が伝わっています。 今からおよそ1,200余年前の奈良時代、天平宝字元年(757年)の旧暦2月、矢代の海岸に一隻の唐船が漂着しました。この船には、高貴な女性ら6人と船子と見られる男性2人が乗っており、磯辺に下りて藻などを採り飢えをしのいでいたのでした。これを発見した村人達は食料を与えて介抱をしました。ところが、日を経るうちに村人達は船に積み込まれていた金銀財宝に目を奪われ、約1か月後の旧暦3月3日についに手杵や弓矢を持って船を襲ったのでした。後に集落には悪病がはやり作物は不作となり、たたりを恐れた村人は唐船を解体した木材で福寿寺を建立しました。そして、悲運の最期を遂げた異国の女性たちの霊を慰めるため、黒装束に身を包んだ村人役の男衆が杵を振りかざしたり、弓を地面に打ち付けたりして王女たちへの襲撃するという蛮行を再現することで、その悪行の戒めとするとともに女王らを供養するのだといい伝えられてます。(手杵祭は新暦4月3日に矢代加茂神社において営まれています。) この高貴な女性を、手杵祭保存会会長の池端さんは「楊貴妃ではなかったかと思うんです」と言っています。王女襲撃の史実が書かれている観世音略縁起には「楊貴妃」の名が記されていると言うのです。 中国では、西暦755年にその後9年間続く安禄山の乱が起き、唐の玄宗皇帝は都を追われました。皇帝は愛妃の楊貴妃たちをひそかに船で逃し、それが日本に、矢代海岸に流れついたのではないだろうか。時期としては一致しているのです。 このような楊貴妃が流れついたという伝説は、山口県油谷町や熊本県新和町などに残っています。この中国の安禄山の乱の混乱の時期に、大陸から逃れてきた人々がいたことは間違いないでしょう。 日本海は大陸から見ると内海であり、大陸から漂着した人々は数多くいたのでしょう。歴史をみても、敦賀市の名の由来となったツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)の漂着伝説や、丹生郡越廼村に伝わるアッポッシャ(鬼面を付けた若者がアッポッシャと言って茶釜の蓋を叩き子どもたちを怖がらせる奇祭。漂着した異国の民をあらわしているといいます。)など多く残っています。 「楊貴妃伝説」。真実は歴史のロマンの中です。 しかし、1,200年前に起こった出来事は「手杵祭」として千年の時を越えて語り守られ、これからも未来へと語りつがれていくことでしょう。 「福井県無形民族文化財」(福井県無形民族文化財保護協議会刊) 「日本の神々 8北陸」(谷川健一編 白水社) 福井新聞(2002年4月1日付) |