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福井県三方郡三方町常神、常神半島の先端にある小さな集落ですが、ここには、「隠し財宝」の伝説が残っています。この地には、「朝日さす入り日輝くその浦に黄金千枚朱千枚」という歌が残っており、江戸時代やそれ以前から何度も金が探されてきたと言われています。常神の歴史を記した西田村誌によると、「朝日さす…」の歌は常神社の境内を指しているようです。 常神社は神功皇后、若狭彦、若狭姫(山幸彦、トヨタマヒメ)、ウガヤフキアズエノ尊、天照大神等を祭る『延喜式神名帳』に載っている古い神社です。いつ創建されたかは不明ですが、約百年前、大不作に陥った西田村を救おうと、村中総出で大掛かりな黄金発掘を行ったといい、境内には当時の発掘後が残っています。その財宝の由来は定かではありません。西暦200年ごろ、神功皇后が常神半島の先端から少し離れた御神島(おんがみじま)に立ち寄り、航海の無事を祈るたる守護神を祭ったという伝説や、常神社の縁起には「舒明天皇2年(629年)2月、御神島に降臨し給い、常にここに居まして異賊の凶害を救い給う」ともあり、神や朝廷に関わる記述も多く残っていることも関係するのでしょうか。常神社が御神島にあった時代もあることから、財宝は御神島に眠っているのかも(?)知れません。 そのほか、福井県内の有力な埋蔵伝説では、「朝倉家埋蔵金」があります。5代百年間越前を支配した戦国武将 朝倉家。歴史の教科書でも家訓の「朝倉十七ヶ条」は有名です。その朝倉家の財力といえば、石高約68万石ともいわれ、その他にも鳴鹿の十郷用水の農業用水権を握り農民から取りたてた用水使用料や、東大寺、興福寺荘園の米を足羽川から三国港を経由して敦賀港へ運ぶ船舶運行料、さらには「馬借」という陸運業者からも通行料などの収入があったらしい。一向一揆などに対する戦費に費やしたとしても、財産はかなりあったようで、末期の朝倉義景時代には、城下町の一乗谷に京都の文化人が引き寄せられ、いわゆる朝倉文化が花開いていました。明智光秀が家臣になったり、将軍足利義昭が招かれて寄宿したのも、財力、戦力のおかげであったと言われています。ちなみに義景の「義」は将軍から頂いたもので、後継ぎに自分の名の頭の字をつけるのが主流(足利将軍家の系図を見てもすべて「義」がついています。)なのですが、足利将軍家の名「義」を頂いたことも当時の朝倉家の力をうかがい知ることができます。 その朝倉義景が、1570年に近江の浅井長政と連合して織田信長を追い払ったところまではよかったのですが、1573年8月14日、敦賀・刀禰坂の戦いで信長軍に大敗し、その後1週間で滅亡してしまいました。あっけなく滅亡してしまい、財産を使いきる暇もなかったというのが、埋蔵金伝説のもとなのです。 一攫千金を狙って山師たちが江戸時代から何十人と発掘を試みたようですが、いずれも失敗に終わっているようです。 城戸ノ内地区には「二の丸の絶壁から、夜、黄金色に光るものが出た。」という言い伝えが古くから残っているそうです。昭和30年12月には、諏訪館西の一乗谷川の橋梁工事中、川底から金の延べ板一枚を作業員が発見(現物は、作業員が持ち帰り不明)、昭和34年10月には、災害復旧工事中の作業員が古銭の詰まった木箱を発見(地元住民が所有)したらしい。 歴史上では、信長軍の先ぽうとして一番のりをした粟屋越中守勝久が掘り出したとも言われています。粟屋勝久は、福井県三方郡美浜町佐柿の国吉城主で、一番のりした特権として、だれもいない一乗谷城で戦利品を分捕り、朝倉家の財宝を運び出し自分の城中に隠した形跡があるようです。というのは、後に美浜町青蓮寺に朝倉家宝の「観音画像」等を寄贈していますし、それに、国吉城には埋蔵金伝説を物語る民謡が残されているからです。 「朝日さす 夕日輝くそのもとに黄金千駄銀千駄」(ん!どこかでも聞いたような…) このように、埋蔵金とは縁がないような小さな城跡に、埋蔵金を匂わす民謡が残されていることも、朝倉埋蔵金の信憑性を物語っているようです。 このような埋宝伝説は日本各地に散らばっており、常神や国吉城に似た歌が残っているところもあります。 「宝島」もそのひとつ。 「宝島」というと、スチーヴンソンの宝島って作品がありましたけど、日本にも宝島があるのです。 世界中で語られているキャプテン・キッドの埋宝伝説、そのキッドの財宝の一部が日本の宝島に隠されているというのです。 日本の宝島、どこにあるかというと、鹿児島県大島郡十島村、鹿児島県の南西の洋上に点々と浮かぶトカラ列島の一番南の端っこにある島、それが宝島です。トカラ列島の由来は、宝の発音が訛ったものだそうです。それでは、まずキャプテン・キッドの話から。 キッドは実在の人物で,本名ウイリアム・キッド。1645年スコットランドのグリーンノックに生まれ、1701年5月、ロンドンのテ―ムズ河畔の、通常ぶらぶら波止場と呼ばれる海賊専用処刑場で5つの海賊行為と殺人の罪で死刑になりました。その略歴は、イギリス政府に雇われ、西インド洋と北アメリカ沖に派遣され、1695年には東インド会社の貿易船を海賊から守る役目を命じらています。1696年から97年にかけて、ニューヨークから東アフリカ沖のコモロ諸島へと航海したキッドは、コモロで大変身して、それまでの海賊を追う立場から、逆に追われる側の海賊になってしまいました。海賊としての初仕事は、コーヒー船の襲撃です。続いて1698年1月にアルメニアのクエダ・マーチャント号を襲いました。 キッドの埋宝伝説は、世界のいたるところで語られています。それは、奪った財宝とその隠し場所を一言も話さずに処刑されたものですから、噂が噂をよんで伝説となったのです。しかも、キッドの埋宝伝説には、実績があるのです。たとえば、カナダのマホン湾の入り江に浮かぶオーク島の埋宝さがしでは、1849年に、ボーリングで掘り進んでいるうちに、ドリルの先に黄金の鎖がからみついて黄金の切片まで上がってきたものですから、埋宝伝説はますます人々の夢を膨らましていったのです。 それでは、日本のキッドの埋宝伝説に話をもどしましょう。 マーチャント号を奪ったキッドは、翌1699年4月に西インド洋に現れています。時期的には、西インド洋に現れる前に東シナ海でひと稼ぎしていてもおかしくありませんし、西インド洋から姿を消して次にヒスパニオラ島に現れるまでの間、東シナ海を荒らしまわっていたとも考えられます。いずれにしても、東シナ海での活動は、1698年から99年の2年間でなければなりません。この2年間に東シナ海に登場したならば、つじつまがあいます。それに、宝島に残る『韻幾利須人宝島侵略記』(インキリストタカラジマシンリャクキ)という文献に次のような記述が残っています。「…元禄十一年ノ頃 外国ノ海賊ラ島ヲ襲フ 島ノ者地下洞窟へ逃ケルモ海賊ラ洞窟ニ火ヲ放チ島ノ者ヲ殺ス ソノ後海賊ラ観音窟ノ地下宮殿ニ住ミタルモ イツノ日カ洞窟ノ中ニ巨万ノ財宝ヲ残セシママ 海ヘ出テ再度島ニ戻ルコトハナシ…」 宝島の埋宝伝説が知られるようになったのは、昭和12年にアメリカの情報部員が日本の外務省にあてた手紙の中に、トカラ列島の宝島に眠るキャプテン・キッドの埋宝の話が書かれており、それをアメリカの新聞が知って記事にしたことが発端です。実際、トカラ列島の宝島に昭和12年、そして21年に島に外国人が調査にやってきたそうです。また、昭和34年には、島の御社を改修しようという話が持ち上がった時、基礎の工事のために境内を掘ったところ、わずか2尺も掘らないうちに、銅鏡五百余り、青磁壷二百余りが出てきて、それにはみんな驚いたそうです。なぜかというと、古くから伝わる島の祝詞に、「銅鏡千体、器物千個、金銀のべ棒あまたをささげまつりて御霊を慰め…」という詞があるからです。島民は、神のたたりを恐れて掘り出したものはすべて、もとに戻すことにしたそうです。 日本の各地に残る埋宝伝説。身近なところにも、まだまだ言い伝えが残っているかも知れません。 「本当にあるかも知れない…」それがいつまでも、人の心をくすぐりつづけるのです。 参考:「福井新聞」2003.5.5 「福井の意外史」読売新聞福井支局 ほか |