|
『源氏物語』は、11世紀の初め(およそ990年も昔)に紫式部によって創られた物語です。『源氏物語』は、全部で五十四帖、登場人物は四百数十人、うち主要人物でも五十人をこえ、時代は四代七十数年にわたる長編です。物語は次のように大きく三部に分かれています。 【第一部】 「桐壺(きりつぼ)」〜「藤裏葉(ふじのうらば)」(三十三帖) 光源氏の栄華への軌跡の物語 【第二部】 「若菜(わかな)上」〜「幻(まぼろし)」(八帖) 光源氏の晩年の憂愁の物語 【第三部】 「 匂宮(におうのみや)」〜「夢浮橋(ゆめのうきはし)」(十三帖) 光源氏次世代の、薫(かおる)や 匂宮(におうのみや)の物語 ※ 特に最後の十帖(「橋姫(はしひめ)」〜「夢浮橋」)を「宇治十帖」と言います。 では、物語りの内容(あらすじ)を紹介しましょう。 【第一部】 桐壺の更衣(きりつぼのこうい)は、帝の寵愛を得て美しい皇子を産むが、ほかの妃たちに妬まれ病死してしまう。皇子は元服とともに源氏の姓を賜り、その美貌と才能により光源氏と称された。左大臣の娘の葵の上(あおいのうえ)を正妻としたが、政略的な結婚に心馴染めない。亡き母に似ている継母の藤壺(ふじつぼ)を慕い、やがて成長に従い恋の想いが募っていき、ついに過ちを犯してしまう。 この秘密を背負っての光源氏の多彩な人生史が『源氏物語』の主題である。 宮中での雨夜の宿直(とのい)で、友人たちから聞いた女性談義に心をそそられた光源氏は、藤壺への満たされない恋を埋め合わせるかのように、老地方官の後妻の空蝉(うつせみ)、前の皇太子の未亡人の六条御息所(ろくじょうみやすどころ)、五条の巷の女 夕顔、後に源氏の妻となる藤壺の面影を宿す紫の上(むらさきのうえ)、亡き常陸の宮(ひたちのみや)の姫君末摘花(すえつむはな)、右大臣家の姫君朧月夜(おぼろづきよ)、麗景殿(れいけいでん)の女御(にょうご)の妹花散里(はなちるさと)、明石の君等々、源氏は恋を重ねます。 その中で、過ちを犯した結果、源氏の子を宿した藤壺は罪の子(後の冷泉帝)を産む。また、六条御息所は嫉妬により生き霊となって夕顔を取り殺し、また、葵の上も若君(夕霧)を出産後六条御息所の生き霊にたたられてなくなる。 やがて桐壺の帝が位を退くと政治の実権が右大臣に移り、左大臣の婿である源氏は不利な立場になり、また、右大臣家の姫君朧月夜との交情が露見してしまう。苦境に追い込まれた源氏は自から都を出て須磨に身を引くことになる。須磨では明石の君(あかしのきみ)との出会いとなり、やがて罪を許され帰京する。 翌年、源氏の罪の子冷泉帝が即位し、しだいに栄華の道を歩み、ついに准太上天皇(じゅんだじょうてんのう)という特別な待遇(退位した天皇に準ずる待遇)を得て栄華を極めるのである。 【第二部】 出家の志が強い朱雀院(すざくいん)は、年若い愛娘、女三の宮(おんなさんのみや)の将来に不安をおぼえ、弟の源氏に後見を頼み、源氏は正妻として迎えた。それにより最も衝撃を受けたのが紫の上であった。源氏との長年の生活が深い愛情と信頼で結ばれていただけに、紫の上の心の傷は大きかった。不安と悲しみは紫の上をしだいに病弱にさせ、いちだんと仏教へと傾斜を強めていった。 そんななか、女三の宮に心を寄せていた青年柏木(かしわぎ)がいた。彼は蹴鞠(けまり)の折に宮の姿をかいま見て以来、恋のとりことなってしまう。源氏が、紫の上の病気の看護に手をとられている隙に柏木は宮に近づき、宮はみごもる。このことを知った源氏は、怒りと苦しみの中で、若き日に彼自身が継母の藤壺の中宮との間に犯した罪の報いとも感じられ戦慄するのだった。 源氏を裏切った二人の償いはきびしく、女三の宮は罪の子薫(かおる)を出産して後出家し、また、柏木は自責の苦悶のため重病となり、親友夕霧にあとを託して死んでいった。紫の上は、病状も重くなり、出家の願いも聞きいられず、ついにこの世を去っていく。若い妻に裏切られ、最愛の妻に先だたれた源氏は、もうこの世に生きる気力はなくなってしまう。 出家往生を願って過ごす源氏の余生は孤独の影がただよっている。こうして、光源氏は五十余歳の生涯を終えていったと思われる。 ※『源氏物語』には、「雲隠」という一巻がある。この巻は、昔から巻名だけが伝わっており、光源氏の大往生を象徴的に表したものであろう。 【第三部】 淋しい宇治の山里にすむ先帝の八の宮には二人の姫君があった。薫も青年となり、仏道の師として八の宮(はちのみや)のもとに通ううちに姫君にも心ひかれていく。しかし同時に八の宮に仕える老女から出生の秘密をあかされる。やがて八の宮は、薫に姫君たちの後見を託しこの世を去る。 薫は、姫君たちへの生活の世話をするうちに姉の大君(おおきみ)への思いが募る。その中で大君は、妹の中の君(なかのきみ)を薫と結婚させたいと思う。薫は、友人の匂宮(におうのみや)を中の君へと手引きをしたが、この結婚は幸福といえず、大君は心痛のため病となり薫にみとられながら死んでいく。 亡き大君の面影が忘れられない薫は、匂宮の妻として二条院へ移った中の君をたびたび訪ね、故人をしのびます。中の君は薫の心情を哀れみ、亡き姉に似ている異腹の妹浮舟(うきぶね)のことを告げる。やがて薫は、宇治で浮舟を見て強く心をひかれる。しかし、好色な匂宮も浮舟に近づいたため、田舎育ちの純真な浮舟は板ばさみとなって悩み、ついに宇治川に投身しようとして邸を迷い出た。入水したと思われた浮舟は横川の僧都(そうず)に救われていた。 浮舟は俗世への想いを断ち切ろうと僧都に請うて尼となる。浮舟の生存を聞いた薫は、浮舟の弟を文使いに出す。浮舟は泣き伏すが、しかし返事は与えないのであった。(終) では、作者である紫式部の生い立ちは、どのようなものだったのでしょうか。 出生は、天禄元年(970)説、天延元年(973)説、天元元年(978)説があります。 父藤原為時は、文章生(古代の大学の学生)出身で、当代指折りの文人(漢詩文に秀でた人)でした。 花山天皇の御代に式部丞蔵人をつとめたが、一条朝では長い無官の生活ののち、越前(福井県)、越後(新潟県)などの受領(国の守)を歴任しています。 式部は、長徳2年(997)、父為時が越前守に任ぜられ赴任する際、父に伴われて越前の国府(福井県武生市)に赴いています。越前への旅と、地方生活は式部にとって貴重な体験でした。都から離れるということがなかった時代での旅は、大旅行であっただけに、未知の国の人情や風物を吸収しておおいに見聞を広めたこととおもわれます。そのときの体験が、直接間接に源氏物語の創作に生かされたであろうことは、容易に想像されます。式部が越前に赴いたのは、未知の国への興味と、為時の友人で後に夫となった藤原宣孝との間に縁談が持ち上がり、それに気が進まなかったことも一因と考えられています。しかし、田舎住いも侘しく、宣孝の越前まで恋文を送って来る熱意にほだされて、結婚する気になったのだろうか、式部は2年目ごろには父を残して越前の国より帰京しました。式部が藤原宣孝と結婚したのは、長保元年(999)ころ。また、結婚の翌年、一女賢子が生まれました。しかし、幸福もつかの間、長保3年(1001)夫宣孝は病気で亡くなり結婚後3年で未亡人になってしまいます。 夫宣孝が死去して、その悲しみの中から立ちあがって、式部は物語に手を出し、やがて『源氏物語』を書き始めたのであろうと推測されています。 『源氏物語』を書き始めてから4年程たった寛弘2年(1005)ころ、一条天皇中宮の章子(藤原道長の娘)のもとに出仕することになりました。このころには、『源氏物語』原初の数巻によりある程度の文才が認められていたと思われます。そしてこの期間こそ道長などの庇護のもとに『源氏物語』は長編物語として書き進められていた時期であったと考えられています。式部の宮仕えがいつまで続いたかは明らかではないが、一条天皇が崩御された寛弘8年(1011)以後も、引き続き皇太后宮となられた章子に仕えています。 いつなく亡くなったかはわかりませんが、長和3年(1014)ころとも言われており、四十数年が式部の生涯でした。 紫式部とは本名ではなく宮仕えしたときの呼び名(伺候名)です。当時の女官の呼び名には、その女性の父や夫の官職名をつけることが多く、父藤原為時が前に式部丞をつとめたことから「式部」と呼ばれ、姓が藤原なので「藤式部」というのが正式な伺候名でした。紫式部とは、『源氏物語』の若紫の物語を書いた人ということで呼ばれたようです。ちなみに、清少納言は、清原家の少納言の娘であることをあらわしています。 |